もしもし、ハンカチを落としましたよ

ゴールデンウィーク初日、女装のサロンの帰りのことでした。

久しぶりの女装話にちょっと興奮して、靖国通りをウキウキで歩いていました。

ふと前をみると、後ろ姿が見目麗しい女性が歩いていました。二十代後半でしょうか、ストレートのロングヘアがとても素敵です。

今日はいいことがあるなあと思っていると、プルルーンと音がしました。その女性が鞄からスマホを取り出したその時、ぽろっと、ハンカチが地面に落ちました。

私は声を上げようとしましたが、思いとどまりました。これ、女装者の癖です。ゾンビに襲われても男声だけは上げるな。

「ハンカチ、落ちましたよ」
この一言が出なかった。


彼女はスマホで電話しながら、ゆっくりではあるが、少し先に歩いて行ってしまいました。

やばい、気づいていない。私は少し焦りました。逡巡しているうちに、女性はもう、五メートルくらい先を歩いています。更に大きな声かけが必要です。ますます、ハードルが上がります。

こうなったら、呼び止めるのではなく、私が拾うしかありません。でも、でもですよ、変態の女装が拾ったハンカチを彼女はどう思うのでしょうか。

こんな変態の触ったハンカチは汚いと感じて、受け取らないのかもしれない。いや、それどころか、私がハンカチを手渡した瞬間に、

「きゃー、あれー、変態、おまわりさん」
にはならないとしても、相手は、平凡な純女さん、ここは慎重に行かねばなりません。

私は蛇に睨まれたカエルのように、足元に落ちた彼女のハンカチをじっと見て立ちすくみました。

「無視よ、面倒には関わらない方がいいわよ、通り過ぎるのよ」。悪魔のささやきが私の耳に聞こえます。「たかがハンカチよ、それに落とした女が悪いのよ。」

いや、だめだ、純。こんな悩んでいる場合ではない、男を見せないと。いや、女をみせないと。

一介のハンカチとはいえ、

彼女が死んだ親からもらった形見のハンカチだったら、

大事に思っている彼氏からのプレゼントだったら、

愛するバレーボール部の先輩女子からの卒業式でもらった記念のハンカチだったら、

どうするの。ハンカチを失う事で彼女はどんなに悲しむに違いないわ。

私はハンカチを彼女に届けないといけない。

むくむくと使命感が高まります。しかし、こんな女装姿で、清純な女子にどう声をかけるのか。無理無理無理。私は、悶絶しながら、地面に落ちたハンカチを凝視していると、後ろから、おじさんが近づいてきました。

おじさんは私の足元にあるハンカチをみて、

「ねえちゃん、ハンカチを落としているよ」

と教えてくれました。「分かっているわい。」って返事をしそうでしたが、そこは我慢。女らしく、微笑んでハンカチを拾いました。

手に取ったハンカチは、ピンク地に赤い可愛い刺繍のはいったハンカチ。もう、後には引き返せない。今更、地面にハンカチを置くことはできないのです。前に進むしかありません。

「純、きっと、あのおじさんは、いつも逃げてばかりの私を叱咤するために現れた天使なんだわ。」

そういえば、あの禿げた頭から後光がさしているようにも、「逃げちゃダメだ」とおじさんの背中が語っているようにも。

髪のいや、神の啓示の後押しもあり、私はハンカチを手にもって、女性に向かって歩みました。
どんな女性だろう。期待もふくらみます。

私は女性の背後に近づきましたが、最初の一言に悩みました。
「すみません」
月並みだ、それにナンパだと思われてしまうかも、ここは単刀直入に、きっぱりと
「ハンカチを落としましたよ!(断言)」
これだ、これでいこう。でも、女装なので、断言口調でも声の高低を気をつけなくては。北大路欣也みたいになってはいけな い。

私のモジモジから発せられるオーラに気付いたのか、女性が立ち止まりました。よほど、何か背中に感じる熱いものがあったのでしょう。空中を煩悩の電波が飛んだのかも。彼女の電話は既に終わっているので、私のコツコツというパンプスの足音も聞こえただろう。きっと、女性だと思っているだろう、それなら安心、いや、安心じゃない!

私はさりげなく、ほんと、さりげなく、女性の横にまわると、声をかけました

「ハンカチを落としましたよ(ちょっと優しく、つつましやかに)」

女性は差し出されたハンカチをみて、少し、驚いた顔をして、私を見て、

「あ、ありがとうございます」

その声がなんと、凛としていて気持ちいい。それに顔も可愛い。彼女は私を見て、素直に微笑んでくれました。こんな中年の女装にですよ。さきほどのオヤジが天使なら、この女性こそ、マリア様です。

私はマリア様に何か言いたかったのですが、なんだか照れくさくて、そのまま早足に立ち去りました。

新宿ってなんていい街なんだろう。